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・上映会と義援金のおねがい
・上映会
 

高田 博(たかだ けいこ)

私は、原発から20〜30キロ圏内の南相馬市に住居がある3人の子供を持つ30代です。この春、長女は中学校に入学、次女は5年生、長男は小学生に入学します。ただ、仲のよかった仲間や地域の方々とは、離れてしまいました…私達の生まれ育った地域では、学校再開の目処はたっていません。勿論、卒業式・卒園式もできていませんし…私事ですが、謝辞を読ませて頂く予定でおりましたが、お礼の言葉さえ言えないでいます。マーチングの部活に命を賭けていた娘も、最後の発表会の前日に震災に合い、後輩の為に考えていた出し物やプレゼント等を渡せないでいることを、時々、つぶやきます。今、県外に避難し、新しく生活を建て直そうと、もがいています。様々な制度の壁等もあり…生きていくことすら不可能かと思ってしまう場面が多々ありますが…友人や、避難先等で、温かいお心遣いをしていただく度に…勇気づけられると共に亡くなってしまった友人達を想います。

3・11
当時、妊娠3ヶ月だった私は、悪阻が酷く暫く仕事を休んで、自宅でケータイ等で業務する日が続いていました。
年度末が近付き…気合いをいれて久々に出勤した・あの日…溜まりに溜まった仕事に取りかかっていますと 12時、長男の通う保育園から「息子の具合が悪く、何度も嘔吐している」と連絡がありました。 なかなか仕事を切り上げられず…14頃に保育園に迎えにいくと、熱もなく元気に駐車場に停めてある車まで走りながら「早く帰りたい」と、息子はボソッと言ってました。自宅に帰る途中に、娘達が通う学校があるのですが…彼女達を誰が迎えに行くのかを何度も息子が聞いてきて妙な感覚がしました。「体育館にいると思うから」と、言っていたのです。
帰宅して、すっかり元気になった息子に、おやつを用意していると、大きく横に床がスライドする感覚があり…家中の硝子が、とてつもない振動をして鳴り始めました。慌てて、息子を抱きしめリビングのテーブルの下に入り…後は、良く覚えていません。
死ぬかも…と思った
息子だけは、死なせない!と思った。…それから、このような事態になるとは予想していませんでした。

…地震第一波があった時、娘の通う学校では全校生徒は体育館に非難して、保護者の迎えを待ち各々帰宅しました。ただ、不幸な事に保護者と共に帰宅した生徒の中には、津波にのまれてしまった方もいます。車だけが見つかった。建て替たばかりで、まだ御披露目もしていない体育館は、あまり揺れなかったそうです…付近の民家は半壊全壊していましたが…。

一方、私の職場は、小さなホールや体育館等が隣接する施設です。緊急時には、避難所になることになっています。
震災後、スグに避難所となり、スタッフは泊まり込みの業務となりました…。私は、電話番程度しか出来なかった。申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

間もなく、管理する施設の一つが、遺体安置所となり…そちらは男性スタッフが泊まり込みました。
どうしても、仕事の比重が体力も判断力もある男性スタッフにかかってしまうことが、申し訳なく…自分の無力さに、苛立ちを覚えました。

夫は…何時頃だったか…会社全体が早めに業務を終えて娘達をピックアップし、帰宅しました。
夫は、長年地元の消防団をしていました。震災後は津波の跡でレスキューと言う名の遺体引き上げや、火力発電所の消火等をしていました。
知人の遺体もあげ…毎日、くたくたになり帰宅し、ベッドで泣いていました。
それでも、4時間位は帰宅でき、子供達の顔を見て安心していた様です。
私も夫も、避難する気持ちは全くありませんでした…危ないと知りつつ、電力関係者の友人に説得されても…やはり、夫婦共々、慣れ親しんだ地元、地域のイベント企画等させていただき…思い入れのつよい南相馬市、まして救助することが出来るかもしれない現場とスタッフを置いては行けなかった。
震災から一週間以上経ち、やはり、電力関係に勤める友人夫妻から、再度、説得の電話が入りました。夫にも、説得と状況説明をしたそうで…話し合い、明朝、南相馬市をでることに決めました。眠れずにベッドに入っていると、別の親しい友人から(…やはり親族の方が炉に入っている方で…)緊迫した知らせが入りました。…今、遺書を受け取りました。お願いだから、今すぐ逃げて!  と。

私は、夫に知らせ、泊まりに来ていた母を起こし、取りあえず、家をでました。母の運転で…私は、まだ地元にいる友人達に連絡を取り続けました…
(2日間以上、気付くと寝ていなかった様で、メールで、ガソリンの抜き方を伝えたりと言ったやり取りをしていました。)
夫の実家は、津波ギリギリ…半壊もしていましたが、避難所から自宅に戻っている日でした。何度かけても、電話に出ず、夫が直接迎えに行きました。
「俺も一緒に車で逃げてるから、心配するな」と、いう夫の伝言をもらったのですが、不信に思い何度もコールし、やっと出た第一声で、まだ地元に残っていることが分かりました。

それから2日位でしょうか…やはり、津波跡で夫のいた消防団は捜索や遺体あげをしていましたが、夫の判断で団を解散させ、上司に報告し、団員は泣きながら、現場を後にしたそうです。
津波を見ながらの作業でしたし、まだまだ全ての方を親しい方々へお渡しできたわけではないし、上げたとしても、海水を含んでグズグズになった遺体は、誰なのか、よく判らない事も多くて…感覚がおかしくなってきます。殉職した団もありますから…断腸の思いだったことと、思います。

避難して2週間が経った様です。気付くと…私達は、どこに行けばいいのか…。どうしたらいいのか、途方にくれてしまいます。

悲惨な様子も、避難所での被災者同士の心の絆も、笑える話も沢山体験でき…今、こうして 生きていられる事に感謝と共に複雑な…罪悪感に似た想いも持っています。

私も、あの日、息子が嘔吐しなければ…津波のあった地域を車で走っているハズでした…。

今、沢山の善意を受け、なんとか新しい春を迎えようとしています。
後、数時間で、長女の入学式・明日は長男の入学式です。  …全てをバネに、自分達のルーツを忘れずに、いつか、地元に戻れた時には全力で復興にあたりたいと思っています。

避難当初から、出血が続き…駄目かも、と不安でしたが、無事に出産し、遠い我が家に帰る日を夢見て…

読んで頂き…ありがとうございました。
江尻暁子 ひろしししど
けいこたかだ けいすけしまざき
もといこばやし のぶおますだ
ともみちひるた ゆきこみはら