・上映会と義援金のおねがい
・上映会
 

宍戸 博(しまざき けいすけ)

3月11日14時46分、私はお客様を乗せ運転中だった。ちょうど信号待ちをしているときだった。強風にしては長く、強く車体を揺さぶられ、道路標識が大きく揺れていて初めて地震なのだと気づいた。信号は青になりまた赤になったが車は一台も動かなかった(正確には動けなかった)。
地震が収まり、お客様を目的地に降ろした後、駅前を走行する。水道管が破裂して道路に水たまりが出来ていた。ショックで泣き叫ぶ女性がいた。古い本屋が潰れてしまっていた。公園にさまざまな年齢・制服の人が集まっていた。
職場の老人ホームへ戻る。全員が無事であることが確認できたが、電話は一向に繋がらない。情報が得られないのは不安を増幅させる。しかし、その時想像していた不安をはるかに超える大きな災害であったことを知るのはまだ先だった。

奇妙なことに、一日目の夜の街中は、まだ大きなパニックになっていなかった。コンビニエンスストアも、ガソリンスタンドも通常通り営業していた。
お客様のことが気になり、二日間職場に寝泊りした。依然として電話は殆ど繋がらなかった。パソコンのインターネットが頼りだった。思いつく限りのサイトに無事であることを書き込み、東京に出張で出かけていた上司とはメールで情報を交換しあった。
ライフラインのうち、電気とガスは問題なかったが水が止まっていた。しかし、これだけで済んでいたのは幸いだった。地震の後の津波の被害に遭った家は、全てを失っていたのだから(後で知ったが、津波は第三波まであったらしい)。
震災から数日後、携帯電話がメールを受信した。友人などから数十件の安否確認のメールが届いていた。とりあえず、SNSやメーリングリストを使って情報を集めることにした。その頃から、市民は飛び交う多くの未知な情報に混乱し始めた。原発の話題が大きくなってきていたからだ。
SNSで、二歳の子供がいる友人夫妻が、ガソリンがないために避難できないと書き込んでいるのを見た。休みが二日間あり、ガソリンにも余裕があったため、友人の実家の新潟県へ連れて行った。いわきから280km離れた新潟の長岡では、以前震災があったこともあり、対応が早く思えた。無料の放射能の付着測定を行ったが、その場でまったく問題ないと言われ、安堵した。不安に駆られた住民による買い占めが始まっていたが、住民も、被災した旨を伝えると、いろいろな情報を分けてくれた。
二日後の16日、いわきに戻ると、更に大変なことになっていた。流通が止まり、物資が入ってこない。ガソリンもないため、移動ができない(いわきの移動手段は自家用車が多く使われる)。結果的に、店が開かない。働きたくても移動できないため休まざるを得ず、また逃げたくても移動できないため留まる他ない。情報はいつまでも錯綜している。テレビは目立つ所しか映さなかった。主な情報源はラジオ。WebではツイッターかSNSだった。
まさに情報戦だった。情報のある人とない人、そして移動手段のある人とない人で生活に差が出来はじめていた。給水、配給、ガソリン情報…これまで日常であったすべてのもの。だれかが言った「終戦後のようだ」。

「独居老人に食べ物を与えられない」そういう声を耳にした。「救援物資は目の前に届いているのに、必要とする人に渡すことができない」そんな声も聞こえた。市の災害対策本部に電話をした。市の職員も手一杯のようだったが、それでも、真剣に耳を傾けてくれた。「来週には民生委員と連携をとります」という回答を得た。そんな折、大阪に住む恋人が倒れたという報告をもらった。職場に事情を説明して休みをもらい、いわきから700km離れた大阪へ向かった。
恋人は、仕事による疲労と、私の心配による過呼吸で倒れたとのことだった。幸いなことに恋人の容態は思ったほど悪くはなかったが、そのまま数日間を大阪で過ごした。大阪では、テレビをつけなければ何もない日常だった。乾電池が売り切れている程度だった。
いわきに戻ると、やはり余震が続いていた。ガソリンを購入するのに数時間待ちはざらだった。風評被害も相まって、“ゴーストタウン”との声も聞かれた。この時には、いわき市内でも被害の大きなところとさして被害を受けなかったところがあることは知っていた。
知り合いが、震災の犠牲になったことも伝え聞いていた。
それでも人々のプラスの意識は少しずつ場を好転させる。少しずつ街に灯りが点り、人が多くなる。街は少しずつ元に戻っていく。4月6日から小中学校が始まる、そんな話を聞いた。しかし、原発の問題は終わっていない。放射能が可視できない以上、誰も“誰もが納得する正しい答え”を出すことは出来ない。

二日前、NPOの方と連携し、被害の大きかった海側の場所へ救援物資を届けに行った。
見知ったはずの灯台までの道のりが、まるで初めて見る場所に思えた。声が出なかった。ただ、これからこのことを誰かに伝えるために記憶しておかなければならないと、それだけを思った。ここに住んでいた人々は、精一杯生きていた。わたしたちは、そんなことを知らずに生きていた。本当の二極化している現実は、ここだと思った。

東京に住む友人から電話をもらう。友人は、ここから190km離れた場所から、いわきのことを考えている。いわきは、故郷だ。私の故郷は、ここにしかない。だから、わたしたちは、ここを愛しているし、大切なひとがここにいるのだから、全力で守りたい、そう思っている。
江尻暁子 ひろしししど
けいこたかだ けいすけしまざき
もといこばやし のぶおますだ
ともみちひるた ゆきこみはら